生きる技術を、山から学ぶための僕らの姿勢。



経済的価値を至上とし、権力の一元性の文脈で何もかも捉える。

経済力のない人に対しては、バッサリと、露骨に、汚い言葉で、身もふたもない言葉を浴びせる。

合理性を強力な後ろ盾にして、上からの目線を注ぐことの正当性を唱える。

そんな人は、いる。


それを賞賛する人たちもいる。

イデオロギーを支える合理的結論は、耳触りよく聞こえるし、人を上から見下すことができる。

二項対立に捉えて、相手を「ばか」の一言で済ます。

集まって物言う人を、「暇人」「非生産的」と揶揄する。


なんというか、心のない、想像力の欠如した、悲しい状態だ。

極めて憂慮すべき事態だと僕は思う。


ところで、「国家から一定程度の自律性」を確保して、いわば「国家なき社会」で暮らすラフの人たちは、自然・人間・精霊・神といった、多様性の中で生きている。

彼らは、合理性では割り切れない世界をみている。

合理性で割り切れないところに、意味を持たせている。

つまり、豊かな想像力を持っている。

国家に縛られる我々が見失いかけた、あるいは見失ってしまった想像力であり、生きる技術である。


経済的合理性を至上・絶対とする見方を相対化して、我々がこれら山の生きる技術を学ぶためには、そもそも世界が多様であることを認識するところが出発点となるであろう。

経済や権力の一元性に縛られる視点から自由にならないと、「山みたいな田舎から学ぶもんなんかねえ」って、一言で片付けられてしまうのである。


というか実は現に、経済的価値に絶対性をおく今の風潮は、そんな状態にさせつつあるようで、恐ろしい。


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