「第一回タイ・オンラインかるた競技大会。優勝」 
チェンマイ大学かるた部は、それをやってのけた。 





チェンマイ大学にかるた部は新設されてから、早いもので3年目を迎えた。しかし、今年度前期は全てオンラインのため活動はできず、さらに後期も「年内いっぱいはオンライン」が決定。かるたは難しく、とりあえずZOOMで新入生を含めての顔合わせをしたくらいだった。 

そんなとき初代部長(卒業生)が、クルンテープかるた会の「第一回タイ・オンラインかるた競技大会」の案内を教えてくれた。僕たちはこれによって、アプリでオンライン競技かるたができることを知るとともに、さっそく大会にエントリーした。

2代目部長(4年生)、現部長(3年生)、2年生の3名で構成されるチーム。その名は「チェンマイ大学かるた部」である(僕がとりあえずでつけた、ひねりのないそのままのチーム名)。 

とはいえ、いざ大会にエントリーはしてみたものの、練習はなかなか進まなかった。正直、本格的に行ったのは4日ほど前から。「よし、明日はベストを尽くそう!」そう言って前日までの練習が締めくくられた。 

大会当日。 出場者3人と僕は、控室的にZOOMをつないでいた(4時間以上)。




4人で大会の開会式などのライブ映像をみる。チーム名は自由で、みなが思い思いのユニークな名前をつけていた。そのなかで唯一、面白みのない「チェンマイ大学かるた部」。 
「俺らだけ、真面目か!」 
4人で爆笑した。 

 そして、試合がまわってきた。 
「いってきます!」 
そう言って、出場学生たちはZOOMのビデオ画面を切った。 その間、顧問は待ちである。

そして、試合が終わるとZOOMビデオがオン。 
「勝ちましたー」 
学生が戻ってきた。
接戦のすえに勝ちをもぎとった学生が、ガッツポーズしながらZOOMに戻ってきたときには、しびれた。 

ということで、蓋を開けて見れば、連勝・連勝。 
「チェンマイ大学かるた部、強いですねー。優勝候補ですねー」 
司会の方々からも言われている。 

「チェンマイ大学」「チェンマイ大学」と連呼される(競技の様子はコチラ)。 
真面目で堅苦しいチーム名は、逆によかったようである。 

そして最終的には、優勝をさらった。みなで、ZOOM内で大喜びした。

大会後に学生たちは「初めての大会。とてもいい経験になった」とか、「やってみれば、頑張ってみれば、勝つことができるということを知った」などと語った。 

 「チェンマイ大学かるた部は来年からも連勝を続けよう。かるた部の伝説は今日から始まる!」 
そう言って、みなで記念撮影。バイバイとZOOMをきった。 



学生の底力は圧巻、感動した。本当にありがとう。おつかれさま! 
僕は無論、大会に出てない。でも祝杯の酒の味、最高にうまかった。



警察からの手紙が突然届いた。

別にふだん悪いことをしているわけではないが、なんだか気分はよくない。


封を切ってみる。

我が家の車が、交差点を駆け抜けている写真。

あれー。


日付を見ると1ヶ月ほど前。

なんとなく思い出した。

大学近くの交差点で、赤に変わるか変わったかくらいのタイミングで走り抜けたことを。

「ま、これは行くでしょう。ただまあ警察がいたら、ギリOKか、下手すりゃピッピピーだな」

みたいなことを思ったような、あるいは口に出したような気がしないでもない。

で、警察こそいなかったが、眼を意味するオービスは光っていた。

ギリOKではなかったのだ。


書類によると、減点はないもよう。

ただ、500バーツの罰金。


「まあ、事故よりはずっとマシだ。次からは気をつけようと思わせてくれる、いい勉強だ」

そう強がりつつ、スマホからすぐに振り込んだ。

(警察からの書類にはバーコードが入っていて、スマホをかざせばすぐに支払い完了。そのあたりの迅速さたるや、脱帽である)


さ、これからは気を引き締めて、安全運転を心がけよう。

そう思って、ハンドルを握る。

交差点、決して無理に渡りはしない。

いい教訓になっているのである。


ところで実は…

違反をした日から警察からの手紙がくるまでの1ヶ月ほどの間で、軽く違反気味なことをした記憶がうっすらとある。いや本当は、割とはっきりある。

しばらくはポストを見るのが怖くて仕方ない。



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いつものガソリンスタンド。

給油を済まして、エンジンをスタートさせた。


おや?かからない。

あれ?あれ?

焦りまくる。色々なボタンを押してみる。

知らないスイッチもとりあえず押してみたりする。

もしかしたら、アクセルとブレーキを同時に踏みながらスタートを押せば…と試す。

今考えれば、そんなスマホやパソコンの裏技のようなことでかかるはずもないが、そのときは必死だったのだ。


ガソリンの給油を望む後続車たちが、今か今かと、僕の車が出るのを待っている。

バックミラーに映る運転手たち。イライラしているように映るのは気のせいではなかろう。

エアコンもかからないので、汗だくである。


僕は意を決して車から降りた。

「エンジン、どうしてもかからないですー」

半泣きの態で、ガソリンスタンドの店員さんに言った。

サイドを刈り上げつつのロングヘアーのおじさんで、見かけは割と厳つい。


「え?かかりませんか?おーい、ちょっと見てやってくれ」

おじさんは後続車を違う給油場へ移動させつつ、違う人を急いで呼んでくれた。


呼ばれた人もあれこれ試す。

「こりゃ、バッテリーが上がってるな」

つい2分前まで颯爽と走っていたのに。そんなことあるのかと愕然とする。


「どうしましょう」

刈り上げのロングヘアーのおじさんに問いかけた。

「ニュートラルにできるか?とりあえず、駐車場まで押してあげるよ」

おじさんは後ろに回って、車を押してくれた。


「はいー、右にハンドルを切ってー」

見かけの厳つさとは裏腹に、なんとも親切な方だ。

その優しさに、汗だくで感動した。そして、無事駐車。




「車の修理をしてくれる業者を呼んだらいいよ。もし番号がわからなかったら、店からも呼べるから、言ってな」

そう言って、サッと仕事に戻っていったおじさん。

そのヒーロー性に、感動。後ろ姿をただ眺めていた。


さて僕は、以前に修理をお願いしたことのあるB-Quickが来るのを待った。

1時間ちょっと。急な呼び出し。それくらいはかかるだろう。


何度かの確認電話ののち、B-Quickの店員さんがバイクで現れた。

手には小さなバッテリー。

「もしかしてクレーン車みたいので移動」とかになったら大変だな、と少し心配していた僕はいい意味で拍子抜けである。


そしてお兄さんは手際よくバッテリーに線をつなぐと、スタートしてくれと言う。




写真なんか撮ってる場合ではない。

僕は言われたとおりに急いで運転席にむかい、スタートボタンを押す。

すぐにかかった…。

お兄さん到着から、ものの3分。その迅速さに感動である。


「料金はいりません。会員サービスです。

ただ、バッテリーが古くなってきてるようです。近いうちに変えることをおすすめしますよ」

そう言って、定員のお兄さんはバイクで去っていった。

サービスにもまた感動。しばらく佇んだ。

皆さんの助けあって、無事に車がなおった。本当にありがたい。


帰り際、刈り上げロングのおじさんにお礼を言おうと思ったが見当たらなかった。

引き継ぎしたあとだったのか、休憩に入ったのだろうか。

お礼を言えずして現場をあとにしたことが、悔やまれてならない。




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たった一言だけで、それだけで大きく救われることがある。先日、そんな言葉をいただいた。


僕は歴史学の日本近世史専門の出だ。しかしこの数年は、いろいろな経緯を経て、人類学の分野に向けてのまとまった論文を執筆している。


もともと、大学時代の指導教官の影響で歴史人類学的な研究に惹かれていた。フランスのアナール学派をはじめとした本を、ゼミ内で多く読んだ。


「歴史人類学の大きな課題は、過去のある時代、ある社会を、その深層において読みとっていこうとするところにあります」(二宮宏之『歴史学再考―生活世界から権力秩序へ』:3ページ)


こうした言葉に感銘を受けていた。表面に現れた歴史的事象の深層を読み解くために、人類学の考え方を積極的に取り入れる歴史人類学の研究にはまっていた。


そして、今。人類学の分野に挑戦して勉強をはじめると、「歴史人類学」についての歴史学側と人類学側のとらえかたの違いは大きかったことを痛感する。歴史学は過去のある時点を明らかにするが、人類学はその歴史的事象を現代的な視点でどのように捉えるかが問われる。人類学の訓練を受けてこなかった僕は、苦しみまくっている。


それでも、ようやくとある人類学系(民族学)の雑誌への投稿論文が採用され、それをベースにしてひとつの論文をまとめあげた。日々の仕事をこなしながらの執筆作業は、過酷だった。


度重なる校正をし、人類学の指導教官の先生にファイルを提出した。



結果は…。大幅な修正・加筆の必要性ありとのご指摘を受けた。


努力の量ではなく、結果がすべてであることを突きつけられた。正直言って、心が折れそうになる。メールを頂いたその日は、けっこう落ち込んだ。なんだか、どうしていいか先が見えなくなったのだ。


職場でお世話になっている人類学の先生に連絡し、話をさせてもらった。今回まとめた歴史的事例について、人類学にとらえること、言語化することがどうしてもうまくできず、方向性が定まらないことを伝えて、ご意見を頂こうと思ったのである。


すぐに先生は時間を作ってくれた。


「君が論文を提出しようとしているところは、いわば伝統的な人類学のスタイルを保持しているところです。そこに合わせた論文が求められるだろうから、修正はけっこう大変かもしれませんね。君のことを見てくれている先生は柔軟な人だけど、そういう組織に提出しようとしていることは念頭においたほうがいいでしょう」


「…ただし。君の書いていることは、たしかに歴史的な事例かもしれないが、現代的な文脈で十分にとらえることができると思います。社会人類学、あるいは社会科学的な観点からみても重要な論点を含んでいます。だから自信をもって、とにかく前進したらいいですよ」


先生は「この議論はこうするべきだ」とかはもちろん語らない。自分の力で試行錯誤することは当然だからだ。


でも、「自信を持って前進したらいい」というそのお言葉。気持ちがスッと楽になった。


「僕が書いていることはこれでいいのだろうか。なんだか、もうよくわからん!」と、自分の研究内容に対しての自信を失っていた僕に、先生の一言は大きな救いとなった。


「修正の方向性が決まり、少しまとまってきたら、いつでも連絡ください」

そう言っていただいた。本当にありがたい話だ。


これから半年くらいかけて、大幅な修正をすることとなる。落ち込んでいたって仕方ないし、気を取り直して、とにかく前進していこう。こうなったら徹底的にいいものに仕上げていこう。またしばらく休みのない日々が続くとしても我慢、我慢。


経過や気付きについては、ちょいちょいブログにも書いっていこうかなー、って若干思っている。とはいえ、今回の記事も数カ月ぶり。継続的にアップする自信は正直ない。



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タイに住んで10年以上がたち、研究対象地域もここである。

ただ、僕はもともと江戸時代の歴史を学んでいた。
江戸周辺の村のお祭りや、自治を考えてきた。
いわば江戸時代の地域社会の歴史や文化から、市民社会の基盤形成を考えてきた。
この歴史観を決定づけたのは、やはり恩師である指導教官だ。

先生のご退職に際して、僕が大尊敬している先輩の文章にはこう記されている。

「…先生ご自身が確保された知識の一部をお分けいただいたのが、私であり、川上真里、木村涼、そして若曽根了太等々の各人でありました。M・ヴェーバー、O・ブルンナー、二宮宏之、宮田登など代表的歴史家の著作に誘っていただいたことが、その後の私たちの研究を規定しています。」(中山学「恩師」『法政史学』89:198)

先輩の言葉どおりだ。
今でも挙げられている歴史学者・民俗学者の著作を読み返すことが多いし、何より先生の知識の一部や研究方法が僕を規定している。

とはいえ、タイでの歴史研究は日本史研究のようにいかない点もある。
それは、史料の圧倒的な少なさによる。
タイの地方では長いあいだ、ある物事についてが文字で「記録」されてこなかった。
バイラーン(貝葉文書)と言われる、椰子などの植物の葉を紙代わりにしたものは残っているが、数はやはり少ない。

だから文献を中心にして歴史を組み立てるには、バンコクに残されている史料に頼らざるを得ない。だが、これは為政者の側から書かれた史料である。よって、ともすればバンコク中心・為政者中心の「物語」になりやすい。事実これまでのタイ史研究はその傾向が強いといえよう。

僕はそんな王権や為政者中心の歴史像を相対化すべく、地域の視点から歴史を描いている。
恩師から得た地域への眼差しを柱として、あーでもない、こーでもないとバンコクに残る史料と向き合うのである。

その一つの成果としての論文が7月あたりにでる予定なので、それはまたそのときにお伝えしたい。


一日1万歩。
去年の自粛が明けた5月くらいから、ほぼ欠かすことなく歩いてる。
健康のためにと始めたが、これがすこぶる気持ち良いし、楽しい。

朝と夜に分けて歩き、特に朝は最高だ。
誰もいない静かな道、まぶしい朝日、活動し始める犬や動物たち、道端のお金。
うん?お金?

そうなのだ。
ニマンヘミン通りを歩いていることもあって、よくお金が落ちているのである。
さすが、チェンマイの青山の異名を取る(?)ニマンヘミン。バー多き土地柄である。
みな、酔っ払って落としてしまうのであろう。

通常で1-2バーツくらい。
多いときで50バーツ札を拾った。
風になびく50バーツを見たときは、思わず声が出た。

断っておくが、散歩はお金目当てではない。
あくまでも健康のためである。
このことははっきりしておかなくてはならないだろう。

ただ、偶然にお金を見つけてしまうのである。
キョロキョロと当たりを見回す仕草は、きっとそんなにはしていないはずだ。

お金以外を拾うこともある。

先日は一輪の薔薇が落ちていた。
花の部分にカバーが付けられたまま、道端に落ちていた。
葉っぱはもうシナシナだった。

誰かが女の子にでも買ったのか。
でも、恋は成就することなく、道端に落とされたのか。
もうこの薔薇は、カバーから開放されて元気に咲くことなく、このまま捨てられてしまうのか。
しおれた葉っぱが痛々しく、答えのない想像をする。

不憫に思い、持ち帰ることにした。
一輪の花を持ったまま、散歩。
ちょっと小粋で、いなせだ。

マンションの警備員の人が、戻ってきた僕の手に握られたしおれた花を見た目を僕は見逃さなかった。
まあ、行きは手ぶらででかけたのに、帰りに一輪の花を持って帰ってきたら、確かに不自然かもしれない。
でも、小粋に「おつかれさまです」と挨拶を交わした。

部屋について、すぐさま手頃な入れ物を探した。
花のカバーを外し、茎に斜めにハサミをいれて、水にさした。

「これで咲くもんかね?」
「きっと咲くんじゃないかな」
ツマゴマは言った。




夕方、仕事から帰宅してみると、見事に一輪の花が生き返っていた。

それから数日間、枯れることなく、咲いていた。
花は、部屋をポッとしてくれる。
豊かな気持ちにさせてくれる。
あのまま捨てられなくて、本当によかった。

というわけで、朝の散歩は、日々に彩りを与えてくれて、本当に最高。
今日も元気にテクテクである。

ところで余談だが、1月は自粛期間で、バーはやっていなかった。
だから11月下旬から始めた「拾ったお金瓶入れ(寄付用だ!)」も、今月は音が鳴らなかった。

※寄付用だ。


こう書くと、まるでお金集めのために歩いているようだが、もう一度言っておきたい。
健康とリフレッシュのために歩いている。
これは、声を大にして言っておきたい。





田辺繁治先生による、ミロク信仰に関するご講演があり、僕はコメント役をさせていただいた。



年が明けた。

クリスマスと年末はパーティーをしたが、それ以外は静かなものだ。



※僕ではない。友達だ。



この状況下、旅行に行くこともできず、外出といえば『鬼滅の刃』上映を見たくらい。(2度目。ツマゴマは3度目)






のんびりと正月を過ごしたのである。



さて、さて。

最近突如として、タイではコロナ新規感染者数が増え始めてきた。

ということで、年明け一発目からオンライン授業に切り替わった。

また数ヶ月前の状況に逆戻りである。


朝8時からの江戸の文化の授業。

ZOOMに学生を招待して待っていると、「シャワー中」と名前を変更して入ってきた学生。




入ってきても、ずっと無言。

そりゃ、新年一発目、8時からの授業は確かにハードだが、あまりに正直だな。笑


「サワッディー・みなさん。先生もサワッディークラップ」

彼は、頭を拭きながら、いなせに画面に現れた。

さっぱりしている。


そして授業中は、誰よりも発言し、質問をした。

うーん、メリハリ。


というわけで、今月いっぱいはまたオンライン授業が続く。

今年もよろしくお願いします、みなさん。

くれぐれも健康第一で。


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