救いの一言

たった一言だけで、それだけで大きく救われることがある。先日、そんな言葉をいただいた。


僕は歴史学の日本近世史専門の出だ。しかしこの数年は、いろいろな経緯を経て、人類学の分野に向けてのまとまった論文を執筆している。


もともと、大学時代の指導教官の影響で歴史人類学的な研究に惹かれていた。フランスのアナール学派をはじめとした本を、ゼミ内で多く読んだ。


「歴史人類学の大きな課題は、過去のある時代、ある社会を、その深層において読みとっていこうとするところにあります」(二宮宏之『歴史学再考―生活世界から権力秩序へ』:3ページ)


こうした言葉に感銘を受けていた。表面に現れた歴史的事象の深層を読み解くために、人類学の考え方を積極的に取り入れる歴史人類学の研究にはまっていた。


そして、今。人類学の分野に挑戦して勉強をはじめると、「歴史人類学」についての歴史学側と人類学側のとらえかたの違いは大きかったことを痛感する。歴史学は過去のある時点を明らかにするが、人類学はその歴史的事象を現代的な視点でどのように捉えるかが問われる。人類学の訓練を受けてこなかった僕は、苦しみまくっている。


それでも、ようやくとある人類学系(民族学)の雑誌への投稿論文が採用され、それをベースにしてひとつの論文をまとめあげた。日々の仕事をこなしながらの執筆作業は、過酷だった。


度重なる校正をし、人類学の指導教官の先生にファイルを提出した。



結果は…。大幅な修正・加筆の必要性ありとのご指摘を受けた。


努力の量ではなく、結果がすべてであることを突きつけられた。正直言って、心が折れそうになる。メールを頂いたその日は、けっこう落ち込んだ。なんだか、どうしていいか先が見えなくなったのだ。


職場でお世話になっている人類学の先生に連絡し、話をさせてもらった。今回まとめた歴史的事例について、人類学にとらえること、言語化することがどうしてもうまくできず、方向性が定まらないことを伝えて、ご意見を頂こうと思ったのである。


すぐに先生は時間を作ってくれた。


「君が論文を提出しようとしているところは、いわば伝統的な人類学のスタイルを保持しているところです。そこに合わせた論文が求められるだろうから、修正はけっこう大変かもしれませんね。君のことを見てくれている先生は柔軟な人だけど、そういう組織に提出しようとしていることは念頭においたほうがいいでしょう」


「…ただし。君の書いていることは、たしかに歴史的な事例かもしれないが、現代的な文脈で十分にとらえることができると思います。社会人類学、あるいは社会科学的な観点からみても重要な論点を含んでいます。だから自信をもって、とにかく前進したらいいですよ」


先生は「この議論はこうするべきだ」とかはもちろん語らない。自分の力で試行錯誤することは当然だからだ。


でも、「自信を持って前進したらいい」というそのお言葉。気持ちがスッと楽になった。


「僕が書いていることはこれでいいのだろうか。なんだか、もうよくわからん!」と、自分の研究内容に対しての自信を失っていた僕に、先生の一言は大きな救いとなった。


「修正の方向性が決まり、少しまとまってきたら、いつでも連絡ください」

そう言っていただいた。本当にありがたい話だ。


これから半年くらいかけて、大幅な修正をすることとなる。落ち込んでいたって仕方ないし、気を取り直して、とにかく前進していこう。こうなったら徹底的にいいものに仕上げていこう。またしばらく休みのない日々が続くとしても我慢、我慢。


経過や気付きについては、ちょいちょいブログにも書いっていこうかなー、って若干思っている。とはいえ、今回の記事も数カ月ぶり。継続的にアップする自信は正直ない。



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