先生は国立民族学博物館の名誉教授で、現在はチェンマイ大学で教鞭をとられている。
仕事をご一緒しつつ、普段から論文や研究のお話をさせていただいていて、僕は大変お世話になっているのだ。
もともと僕がタイ研究を始めたころ、よく先生の論文やご著書を読んだものだ。
きっかけは、思想史研究者の今村仁司先生の『タイで考える』かな。
80年代、近代に包摂されていくタイを見つめた好著。
そのなかで、チェンマイでの供犠の儀礼を急いで見に行くために、チェンマイに着いたばかりの今村先生をせかす「民博の田辺繁治」が登場した。
僕はそこから、田辺先生に興味をもち、本を読み始めたと思う。
最近では『「生」の人類学』で勉強させていただいている。
あるいは大学院に通っていた頃のある寒い冬の日、神保町でたまたま手にしてなんだかピンときて買った、モーリス ブロック(Maurice Bloch)の『祝福から暴力へ―儀礼における歴史とイデオロギー』。僕はこの本から、大きな影響を受けたが、実はこれが先生の翻訳によるものだった。(数年前に、そういえばと気付かされた…)
というわけで、先生のご著書には昔からお世話になり、僕にとって雲の上のタイ研究者である。
そんな先生と仕事をご一緒できているから、人生はわからないものだ。
去年の年末、
「タイと日本のミロク信仰について講演をするので、それに対するコメントをお願いできませんか。若曽根さんの専門であるラオの宗教運動との関わりから述べてほしいのです」
と言われた。なんとも恐れ多いが、先生からのお頼みだ。
胸を借りるつもりで、ご発表のコメントを引き受けたのである。
問題は、タイ語でのコメントという点。
最近はめっきりタイ語を忘れている。
ということで、先生の話を聞きながら本番即興でコメントを考えるということは端っから諦めて、原稿をつくって本番に望んだ。
今のコロナ禍を考えて、僕はZOOMで参加。
なんとか20分ほどのコメントを終えて、いくつか質問もさせていただいた。
セミナーが終わったあと、すぐに田辺先生のもとにお礼にいった。(先生の発表会場のすぐ近くから、ZOOMで参加したのだ)
「今日は、ありがとう。今度ごはんに行きましょう。ごちそうするので、何が食べたいか考えといてな」
そう言って、僕の肩をたたき、先生はスッとご帰宅された。
そして、その日の夜。
「今日はご苦労さまでした。おかげで満足のいくセミナーになりました。○○先生が若曽根さんのコメントに興味を持っていました。だから、その先生もご飯に誘おうと思います」
そんな内容の、ありがたいラインを頂いた。
40を越えた僕。
この年になると、自分よりもずっと上の先生から指導を受けたり、後ろ姿を見て勉強させていただく機会は減ってくる。
だから、研究に対して真摯に向き合う姿勢や、人との謙虚な接し方を見せてくれる先生は、とてもありがたい存在だし、身が引き締まる。
恵まれた環境だと心から思うのである。
ところで、まったくの余談だが。
一枚目の写真で、僕の横に写ってるフードをかぶった女の子2人は教え子だ。
なんだか、2人は遊んだような写り方をしていて、僕は非常に和まされた。
教え子が緊張をほぐしくれて、僕は助けられた。
田辺先生が僕にみせるように、僕もこの子たちにいずれちゃんとした背中を見せられたらいいなあ。
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