美術家・磯村暖氏のインタビュー記事を読んで感じたこと。山地の世界から学ぶことの可能性。




たいへん、刺激的な記事を読んだ。



NEUT Magazineより)


美術家・磯村暖氏へのインタビュー記事だ。

その記事内容の良さは、ぜひご自分の目でご確認いただきたい。

若い方のアートな考えは非常に刺激的で面白く、僕がまとめられるようなものではないのである。



さて僕は今、タイやラオスの山地民の歴史を勉強している。

彼ら山地民は、平地の人々によって発見され、書かれ、そしてレッテルが貼られた。

野蛮 蒙昧 未開・・・

カテゴライズされて、彼らに貼られた負のレッテル。

磯村氏は、「安易なカテゴライズ」や「容易なレッテル貼り」で、差別が生まれるとするが、山地民はまさにその歴史を歩んでいる。


一度貼られたレッテルは、剥がれにくい。

必死に真逆の言葉で書き記し、上からレッテルを貼り変えてみても、構造自体は変わらない。

同じ土俵で、ひっくり返し、ひっくり返されをするのではなく、土俵自体を変えなくてはならないのだ。



磯村氏は「今生きている場所がそもそも曖昧」と、タイの地獄寺で気づいたという。

この視点で、山地や平地の歴史も出発しなくてはいけない。

「山地民は蒙昧だ」なんていう前提はいらない。

多様なのだ。いや、多層と言ってもいいかもしれない。



彼ら山地民には、低地には見えない層の世界が見え、生きている。

もちろん、低地の人も山地民には見えない層の世界を生きているだろう。

生きる環境が違えば、世界は違った層において見えるものなのだ。

だから、固定した視点から捉えられた場所ではなく、多層な考えが幾重にも重なり合う、曖昧な場所に生きていると考えなくてはいけないなあと感じる。



磯村氏が大切にするという「いかに社会の仕組みに汚されないか」。

その技術は、山地の人々が見えている層の世界の中からも大いに学べるような気がしてならない。



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