1975年まで続いたルアンパバーン王家。
王家のルアンパバーン支配にまつわる物語は、興味深い。
ある兄弟がいた。
二人はルアンパバーンのからメコンをさかのぼったところにあるタムティンという地の洞窟にて、ルアンパバーンの支配をめぐり、弓の争いをした。
とある岩に向けて弓を放ち、それにくっついた方が王になるというものだ。
ビュッ!
残念ながら、兄の矢は岩に届かなかった。
ビュッ!
弟は機転を利かせて、事前に弓の先に糊をつけておいたため、見事、岩にくっついた。
これにより、弟がルアンパバーンの初代王になり、その後、その子孫がルアンパバーンの王位を継いでいる、という。
で、兄のほうはといえば。彼は、ルアンパバーンから南西へ車で数時間はかかる山間の奥地カサックに住むことになった。今も兄の子孫がカサックに居住しているという。
また、こんな話もある。
ルアンパバーンの土地には、もともとカサックの人々が住んでいた。
そこに、ラオ人が侵入してきた。
ラオ人は争いに勝利してルアンパバーンに定住することになり、カサックの人々は山地であるカサックに追いやられた。
また、カサックの人々は新年の際、お祝いのためにルアンパバーンの王家のもとへ挨拶に来ることが義務付けらた、というのである。
二つの物語はいずれも、山地に住むカサックの人々に対するラオ人優位の正当性が語られているわけだ。
しかし、興味深いことに、なぜかカサックの人々は歴史的にラオの人々から忘れ去られることがない。
遠い奥地に住みつつも、上記のような物語を通じて、常にラオ人に意識されているのだ。
しかも、カサックの人々は、ルアンパバーンの王の儀礼において、非常に重要な役割を担ってきたのだという。
たとえば、1904年の、ルアンパバーン王家最後の王位継承の際には、カサックの長がやって来て、その重要な局面を担ったという。
王位即位式の儀礼の流れにしたがってその役割をみてみよう。
まず、新しく王につく者はルアンパバーンの対岸にあるロンクーン寺で8日間、白衣を身につけ、戒律を守って過ごす。
自戒の期間が終了すると、王位継承者は、王位につくべく、メコン川を渡りルアンパバーンへと入るのだが、途中、川の中州にて灌水儀礼が行われた。
その後、ルアンパバーンの岸に船は到着し、シェントン寺(古い王宮があったところ)に入るところで、2度目の灌水儀礼が実施された。
灌水儀礼を済ませた後、王位継承者はシェントン寺にて白衣から王の服に着替え、王宮へと向かう。
そして、王宮の前で、3度目の灌水儀礼が行われる。
王位継承者は宮殿に入り、僧侶の説法を聞き、玉座に座ることになるのだが、ここでカサックの登場である。
カサックの長が、王の装いをして、王位継承者より先に玉座に座るのだ。
カサックの長は、しばらく玉座に座る。
そして、突如、玉座を降りて、これからなる真の王に向かって言う。
「弟よ即位せよ!」
これにより新王が誕生するのである。
ここで分かるのは、戒律を守ってすごす期間を設けるという仏教的側面と、灌水儀礼というヒンドゥ教的側面が合わさって、王の即位式が行われている点であり、これは東南アジア上座部仏教圏では広く見られることだ。
しかし、カサックによって行われる、仮王の儀礼というのは珍しい。
カサックの長が”兄”として、”弟”の王位即位式を最終的には司るのである。
政治的象徴としてのラオの王と、儀礼的象徴としてのカサックの長の関係構造が浮き彫りになっているといえよう。
ラオ人によるルアンパバーンの支配の貫徹には、カサックの人々の儀礼的・呪術的な力が必要であり、だからこそ忘却することなく、今も語り継がれる物語がある、といえそうである。
当時、王の即位式において、新王が白衣から追うの服装へと着替えたシェントン寺は、今、多くの観光客を集める赴き深い寺となっている。
寺の入り口から伸びる階段は、メコン川へと続いており、この寺がルアンパバーンへの玄関口となっていたこと、そして川と儀礼が切っても切り離せないものであった歴史を忍ばせてくれる。
ボーとメコン川を眺めるのに最適な場所、である。
<参考>・田村克己・石井米雄「宗教と世界観」(『もっと知りたいラオス』)
・田村克己「ラオス、ルアン・パバーンの新年の儀礼と神話
―東南アジアの水と山」
(松原孝俊・松村一男編『比較神話学の展望』青土社、1995年)
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