『痴人の愛』、学生発表。単なる変態じゃあない、という結論に。
『痴人の愛』について、学生が発表した。
30手前の譲治という男が、まだ10代のナオミを囲う。
しかし、ナオミの男性への奔放ぶりに苦悩する譲治。
そして一度は、別れを決心する。
ところが、ナオミの魅力に取り憑かれた譲治は、結局ナオミと離れることができず、彼女の言われるがままの下僕のような存在になりさがるという話だ。
授業では相変わらず、色々な学生からの意見が出て、非常に楽しい。
「ナオミは美しい女で、最後は譲治を、あるいは男どもを下僕のように扱う存在になったね。いわば男ではどうすることもできない聖なる存在になった。
じゃあ、どうしてナオミの美しさの反面、脱ぎ捨てたまま洗われることのない服が散らかっているところや、風呂に入らないところ。つまり、ナオミのだらしなさや不潔さがあえて描かれているんだろうね?」
僕からの質問だった。
うーんと考えている学生たちの中で。1人の子が言った。
「あー、聖なる存在と穢れの問題だ」
聖なる存在としてのナオミには、常に美しさと対をなす穢れがつきまとっている。
当時では珍しかったらしい混血児(あいのこ)という表現で描かれているのも、ナオミの持つ両義性の象徴と言えよう。
かつてメアリー・ダグラスは、穢れとはシステムや秩序からはみ出すものを示しており、決してそれ自体が汚いというものではないと言っている。(汚穢と禁忌 (ちくま学芸文庫))
たとえば食べ物それ自体は当然汚いものではないが、服にこぼれたら汚いものになる、といった話である。
秩序や文脈から外れることによって汚さ・穢れが生じるのである。
ナオミは社会の秩序からは外れた、穢れた存在である。
それが美と共存して、超越的存在になり、男の支配を可能とする。
だから、譲治がナオミを男性優位の社会的常識(当時の)で囲おうという行為は無意味だ。
超越した存在を常識で飲み込もうとすることは、原理的にできないからである。
男たちの常識は、聖性を帯びたナオミの前では脆く崩れさり、譲治以外の男たちがそうしたように、穢れとして忌避するしかなくなるのである。
ただし、譲治だけはナオミの聖性と穢れを全て受け入れた。
譲治は、超越者と僕ら読者をつなぐ仲介者になって、「私」の一人称で語りかけるのである。
つまり、譲治っていうのは、聖/穢れなる存在と僕らの間に立つ仲介者であって、単なる変態ってわけじゃない!っていう結論に、学生たちと至ったのであった。
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