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タイ研究歴50年以上の先生との、ありがたい時間

日本研究センターの人類学の先生と時々、ご飯やコーヒーをご一緒させていただく。先生は世界的に著名な方で、尋常じゃない博学さ。先生からの話は面白いのなんの。ラオスのある場所について僕が話せば、「ああ、その辺を何十年か前にブラブラ歩いていたらチャールズ・カイズとバッタリ出会ってね…」公文書館の話をすれば、「僕が若い頃、アヌマン・ラーチャトンと数回、公文書館で一緒になってね。日本人が珍しかったから、向こうはよく話しかけてくれたなぁ…」ダムロン親王(ラーマ5世の異母弟)の話をすれば、「そういえば、アユタヤ歴史研究センターを建てたときに、ダムロン親王(ラーマ5世の異母弟)の子供だか孫だかがいたなぁ…」歴史資料の保存のことを話をすれば、「昔、石井米雄さんとやったプロジェクトでね…」なんというか、話題の中に、書物でしか目にしないような人の名がさらりと出てくる。それに、先生のフィールドワークの話も印象深いものばかり。僕が最近研究している山地民の話を持ち出すと、「昔、うーん。30年前くらいのことかな。僕も山地の部族にお世話になったことがあったなあ。山奥深いところにいた部族で、人々と話をしていたら夕方になってしまって。そしたら、夕食を食べていけと勧められてね。偉く歓迎してくれたんだ。で、食べ終わったらあたりは真っ暗で。そしたら彼らは町まで送ると言って、松明を持って10キロ以上の道のりを一緒に歩いて下山してくれたんだ。偉く歓迎してくれて、ありがたかったなあ」先生は微笑んでいた。松明で2時間以上の道のりを行列…なんだか、すごい話だ。先生は北タイをフィールドとして50年以上。もともとはラオスを研究対象地にしたかったそうだが、当時の情勢不安で断念。流れ着いた地がたまたまチェンマイだったという。日本では民博で仕事をし、名誉教授になってからはチェンマイに戻って、チェンマイ大で教鞭をとられている。先生に時々お会いしてご飯をご一緒し、いろいろなお話を聞かせてもらえる時間は至極である。改めて、ありがたい環境下に住んでいるなと実感する。<関連記事>・学生の卒論発表。昔、先生に大激怒されたゼミ時代を思い出す。・タイ教員セミナーでの講演を終えて、恩師を思う。・一周忌、いつもと同じ帰り道。・いい教え子に恵まれたもんだ ・ずっと心に…   ...

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「タイの聖地は?」。学生の今風の答え。

ある日の文学の授業。いつものように進めていたら、「聖地」という言葉の意味の話になった。ひととおり説明して、わかっているか確認するために「ちなみにタイの聖地は?」と聞いた。ある学生が即答。「ドイツ」。おおー。どよめいた。うなずきあう学生たち。おんどがこれまでと随分と変わった。ちょっと前まではこの手のジョークは微妙な空気になった。うーん、と変なうなずきくらいだった。のどから出かかっても、みな飲み込んでいた。しかし、今や変わった。くだらないしがらみを、わけのわからない伝統・制度を今、彼らは変えようと叫んでいる。その声や技術は、古い世代を凌駕している。つながりあって、別次元で動いている。たちあがる若者たち。れきしを変えるのは彼らだ、と思う。古い人たち、彼らに希望をあげて欲しい。暴力だけはやめて欲しい。<関連記事> ・もしや”呪い”じゃないか? と怯えてみる。 ・100年前のタイ語史料の文章が示していたのは「逆柱」だった。タイ語で端的になんと呼ぶのか気になる。 ・タイ王国 ...

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タイで3番目に高いドーイ・チェンダオ山。乗用車で登ってえらい目に。

13日は、せっかくの休日。ちょっと気候の良い高原のカフェでも行って作業をしようかと、ツマゴマと話した。ということで、グーグル・マップで山を探す。ドーイ・チェンダオ山。標高2200mくらいの、タイで3番目に高い山だ。Google画像を見る限り、なかなか綺麗である。「ドーイ・チェンダオ国立公園」とあるので、カフェなんかもきっとあるはず。眺め豊かな高原で、秋のような風を浴びながら作業しよう。そう2人で決意して、朝早くから意気揚々と車を走らせた。チェンマイ市内から1時間ちょっとで、チェンダオの山麓についた。下から見上げれば荘厳な山。おおー、となる。登山道に入った。乗用車でグングン進む。ドライブウェイをイメージしながら、ワクワクした。途中、インフォメーション的な場があり、おばちゃんが暇そうにしていた。国立公園に行くのだからお金でも取られるかと思ったが、何も言われなかった。進めば進むほど、道幅は狭くなった。なんだか、ドライブウェイ感が薄れている。道は、ぐちゃぐちゃになり、車が揺れる。ふと斜面の反対側を見れば、崖だ。でも、もう少し行けば道はよくなるはず。自然の中を縫うドライブウェイになるはず。もう少し行けば、きっと…そんな淡い期待を抱きながら、進む。引くに引けない。しかし、状況はまったく改善されなかった。悪化の一途である。2時間以上、悪路を彷徨った。タイヤがぬかるみでクルクルと回ってしまって、前に進まなくなることも数回。車の下は、何度擦ったかわからない。バンパーのところも、なんかバキッと外れた。もう2人、泣きそうだった。いや、もう泣いていた。先に行くべきか、地獄の道を戻るべきかも、もうわからなかった。車が全く通らないこの道で、いずれタイのJAF的なものを呼ぶ覚悟をした。最終的には、もうこれ以上は登れないというところまで来て、頂上まで行くことは断念。また来た道を引き返すことにした。帰り道もまた地獄の行程であることはわかっていたが、仕方がなかった。ヒーヒーとなんとか下山。行きで見かけたインフォメーションのところについたのは、登り始めてから4時間以上が経っていた。車を止めて、景色をみつつフーと息をついた。今になって思えば、行きでおばちゃんが何も言わなかったのは、「お前らその車で行くのか」という唖然さからだったのかもしれない。できれば、我々を追いかけて、強めに引き止めて欲しかった。正直いって、こんな恐怖を味わったのは生まれて初めてだった。ツマゴマはその日の晩は、穴に落ちる夢を見たらしい。今日は、頑張ってくれた車に感謝を込めて、洗った。もはや、戦友。無事に帰れて、本当によかった。ありがとう。<関連記事> ・タイで、全くの別世界を味わった。 ・日本人撮影の100年前(?)のバンコク映像。 ・バンコク図書館・公文書館への近さと綺麗さ。今後はLOST ...