アヌサワリー(ビクトリーモニュメント)の寺にてタンブン(徳を積む行い)をする

朝、突然、タイの友人たちから「今から、アヌサワリー(ビクトリーモニュメント)の近くの寺にタンブンに行くけど一緒に行かないか?」との誘いをうけた。

”タンブン”とは、寺や僧侶に供え物やお布施を寄進するなどして、”徳を積む”ことである。

タイの人びとは一様に、タンブンによって徳を積めば積むほどその人の徳は増していき、その徳は来世にまで持ち越すことができる、と信じている。タンブンによって多くの徳を得た者は、来世において幸福を享受できるのだ。

逆に現世において、タンブンが少なくて、あまり徳を得られず、なおかつ”バープ”と呼ばれる罰当たりな行為ばかりを行っていると、来世において幸せは享受できない。

タイ人の思想の根底には輪廻転生が深く根付いているわけだ。

タンブンの考え方は、今現在、あまり幸福度が高いとはいえないような人びと、いうならば生活が安定しない人びとをうまく説明付ける。つまり、彼らは、前世においてタンブンをあまり行わず、バープのほうが多かったから、現世であまりいい待遇を得ていないのだ、という理屈になるわけだ。

格差社会の矛盾を、仏教の枠組みでうまいこと理論付けている、タイ国家の巧みなイデオロギーを感じないでもないが、そこは僕がとやかく言うことではないだろう。


さて、話を戻そう。

人からの誘いはなるべく受けろ、というのが信条な僕。

それに、昨日は、民間バラモンによる招魂儀礼を目の当たりにした。そのとき脳裏をよぎったのは、「もしもこの民間バラモンが誤って悪い霊までをも呼び寄せて、近くにいる自分に憑いたらどうしようか」という一抹の不安である。

ということで、お寺に行ってタンブンをすることは、グッドタイミングであり、いいことだろう。

「タンブンはいいけど、ところで、仕事に遅れない?」と僕は問うた。

すると、「大丈夫だ」という答え。

その時点で9時を過ぎているのに、なにがどうなって大丈夫かは知らない。まぁ、タイ人らしいといえば、それまでだ。


目的の寺は、アヌサワリーからほど近いところにあった。

「ところでなぜ突然、今日タンブンなの?」と聞くと、「あまりいい夢を最近見ない」という返事。

そういうことも関係するのか。というか、昨日のバラモンの儀礼も、発端は夢に息子が出てきて云々。

うーん。重なるものだ。

寺に行く道すがら、沢山の店を見ていて、急激に腹が減る。「朝メシを先に食わない?」と言い出そうかと思ったが、みな一応にタンブンモード。ここは我慢が肝要だろう。












そして、お寺へ。

さっそく僧侶を呼び寄せ、お経を唱えてもらう。



僕はお経を覚えていないので、手を合わせながら、心の中で、みなの健康を願う。最初はタイ語で、次に一応発音の問題を考慮して、日本語でも願いをこめておく。

読経が終わると、タイ人たちは道すがらにかなり買い込んでいた僧侶への食事や花、そしてお布施などを僧侶に寄進する。

僧侶はそれを受け取ると、今度は、先祖への転送供養をはじめた。

僧侶がお経を唱えている際に、我々は器に水を流し込みながら、先祖に徳を転送するのだ。そして、それが終わると、水の入った器を外に持っていって、水を木々に与える。



これにて終了。

去り際に僧侶が、「韓国人かい?それとも日本人?ここの寺は初めてか?」と質問。

日本人であり、初めてであることを告げると、僧侶は「またいつでも来なさい」と言って下さった。

それは非常にありがたいが、それよりも、僕はタイにおいて、比較的韓国人に間違われやすいので、遠い昔の先祖はきっと韓国系であろうことをここでも再認識した。韓国人にも、韓国人に間違えられるのだからきっとそうだろう。

それはさておき、帰り道で、待望の食事。寺の近くの食堂で、カオソーイという、タイ北部チェンマイで有名な麺料理を食した。



カレーベースのスープに、「赤いきつね」的な麺と、パリパリの麺、二種類が混ざり合う。中に入る鶏肉もホロホロになるまで煮込んであり、やはり絶品だった。



食後タイ人たちは、「タンブンをして、すがすがしい。それにおなかも一杯だ」といって満足そうに笑いあっていた。

「いや、それはいいけど、仕事は?」

一様に笑顔で「大丈夫だ」。爆笑しているやつもいる。

何が大丈夫なのか、なぜ爆笑なのか、その意味は分からないが、大学に行く僕はそこで別れを告げた。





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