狐信仰とピー信仰。”文化の翻訳”の難しさ。鎌倉・佐助稲荷で思う。
今回の鎌倉散策で、一番雰囲気が良かったのは、佐助稲荷。
参拝客が一切いなく、”趣”面では、先日紹介した長谷寺を大きく凌いだ。
参堂の山道には鳥居が並び、京都の伏見稲荷を思い起こさせる。
境内は狭く、それがまた逆に良かった。
暑い鎌倉でほっと一息である。
して、稲荷さんといえば無論、狐信仰。
かつて、狐信仰に関して、タイ人の友人にこんなことを聞かれた。
「なぜ日本人は、ジンジョーク(จิ้งจอก)を信仰しているの?」
「ジンジョークって何?」
「英語で言うFox」
そう言って描いてくれた絵は、何故かすごい笑顔の狐だった。
そうか。タイには狐を信仰する慣習がない。だから、エンブリー『日本の村-須恵村』を読んでいた友人は、日本の狐信仰を不思議に思ったのだろう。というか、そもそもタイに狐がいるのかどうか…。
僕は友人に、
「もともとは、狐は、田畑を荒らすねずみを捕獲するので、豊穣の神としてのシンボルになったんじゃないかな。今でも、豊穣や商売繁盛の神だし。ただ、妖怪としての狐や、いたずらをする狐なんかのイメージもある。なぜそうなったか、詳しいことは分からないなぁ・・・」
「タイで言う、ピー信仰(精霊信仰)に近い?」
「うーん。どうだろう。確かに、タイのピーは、いい精霊もいれば、いたずらをするピー、妖怪としてのピーなどもいるしね。でも、狐信仰は、ピー信仰とはちょっと異なるかなぁ。うまく説明できないけど」
こうして、僕は友人に何の益にならない答えを返したのだった。
日本で生まれ育った僕としては、漠然とながら、狐の不思議な象徴性を感じることができるのだが、それを異文化の人に伝えるのは、やはり難しい。
”文化の翻訳”は、困難なのだ。
だから、僕もいまだに、タイ人の言うピーをうまく理解できずにいるのであろう。
ま、そんな、理解に苦しむ部分のすり合わせ、が面白いところでもあるけどね。
ちなみに、タイでは、小川未明が1918年から1941年に発表した18編の童話を英語訳した”The Tipsy Star and Other Tales”(Yoshiko Akiyama,The Hokuseidou Press,Tokyo,1957)のタイ語訳版が出版されている。
『ローク・コーン・デッグ・チャート・ ディーン・アティット・ウタイ』(太陽の国からの子どもの世界)である。
小川未明の童話は、日本の文化や慣習をうまくとらえ、それが反映されている。そして、本の中では、狐のいたずらの話などが語られている。
しかし、タイ語版では、見事なまでに狐信仰が、ピー信仰に置き換えられている。
しかも、ピーの中でもかなりたちの悪い悪霊 -ピー・プライ- に翻訳されているので、”狐のいたずら”の狡猾的なユーモアが欠けてしまっている。
文化的・思想的背景を考慮した”文化の翻訳”はやはり難しいものだ…
応援のほど、よろしくお願いいたします
ウ~ン、深いね。了太のポエムははやっぱりホンモノだわ!
返信削除コメント、ありがとうございます。
返信削除それにしても、”ポエム”ですか。(笑)
あまり僕の文をポエムと表現する人はいないですが、嬉しい限りです。
今後も細々とですが綴っていきますので、どうぞ、よろしくお願いします。