富士信仰と、タイ人の神性なものへの想像力。 江ノ島で思う。




鎌倉散策のあと、江ノ島へと足を伸ばしたが、そこで見た夕焼けに浮かぶ富士の姿。


いやはや、さすがだ。

古から日本人は富士山に神霊を感じ、畏れ敬ったが、そんな富士信仰の歴史もうなずける。

均整のとれた富士山は、大昔から、日本人を魅了してやまないわけだ。



古来においては、富士は、その麓から人々から拝まれていた。

しかし、江戸時代中期以降、富士山に登る人が増えはじめ、富士講(共通の信仰に支えられ、富士への登拝を目的とした集団)が数多く組織された。

江戸時代末期には、300以上の富士講があった、などといわれている。

ものすごい数だ。



では、富士信仰とは、どんなものか?

それは、弥勒信仰と深く結びついている。

富士の山頂は弥勒の世、つまり来世へとつながる場として考えられたのだ。


だから、富士に登拝することは当時の人々にとって、この世と来世を結ぶ場へと参拝に行くという意味で、重要な思想的意味を持っていたのだ。

いうならば、富士の山に登り、参拝することは、心身の”再生”へと結実したわけである。



で、そんな思想は、今も根本にあるように思う。

近年、富士登山のツアーは結構なブームであり、その動機としては、漠然とした心身の再生がある、ように思う。

なんらかの”きっかけ”として富士に登る者は多いのである(と思う)。

富士に登れば、人生観が変わる、なんて感じかな。



今も昔も、富士の人をひきつける力や神秘性・霊性は凄いってことだ。

そんなことを、夕闇迫る江ノ島で思ったのだった。



余談だが、以前タイに向かう途中、機長がこんなアナウンスをした。

「皆様、よろしかったら右側の窓より下をご覧下さい。富士の山頂を綺麗に見ることができます…」


僕はその美しさに夢中でシャッターを切ったが、この写真をタイ人たちも見て、感動していた。

タイ人は、日本の富士山の写真や映像を見て、それを非常に好むが、やはり上から眺める富士の光景を見たことは無かったのだろう。



「頂上はどうなっているんだ?」

「あの世へとつながっている、なんて考えられてもいたね。昔は」

「そうか。なるほどね」


かなり抽象的に答えたのに、どうやらタイの人々は理解したらしい。

富士のもつ神秘性は国境を選ばないし、また、そういった神性を敏感に感じ入るタイ人の思想を垣間みたのだった。


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2 件のコメント:

  1. 私は2年前(2008年)に富士山に登りました。友人たちの中には、「富士山に登ることで“なにか”を変えたい」と言っている人もいましたので、投稿内容にとても納得感を感じました。

    富士講も有名ですが、「富士塚」も有名ですよね。富士山をまねして作った人工の山。私が昔住んでいた街には、○○神社という江戸時代から続く神社がありますが、今も「富士塚」があります。小さい頃はよく登って遊んでいたこともふと思い出しました。

    いつか日本に本帰国した際には、また富士山に登りたいものです。

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  2. ronyuiさん
    コメントありがとうございます。
    富士山に登ったのですか。いいですねぇ。
    僕も一度くらい登ってみたいとは思うのですが、なかなか…。高山病とかも怖そうだし。
    ということで、僕は富士塚登山しか経験がありません。
    実は、僕の家の近所にもronyuiさんと同じように、富士塚があります。普段は門が閉められていて、立ち入ることができないのですが、一年に一日だけ開かれるのです。
    2年前、ronyuiさんと時を同じくして、僕は初めて富士塚に登ったのでした。

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