村の朝はやはり早い。
日の出とともに村人は活動を開始する。
僕も、村にてお世話になっているときは、自然とそのリズムになっていく。バンコクではこうはいかない。
朝から村をぶらぶら歩いていると、村内の放送が大音量で流れ始めた。どこの村もこんな感じで村内放送があるなぁと思っていると、しゃべっていたのはいつもお世話になっている大学の先生。
【村の放送局】
先生は、自身や学生の紹介をして、皆をよろしく頼む旨を村内ラジオで放送した。
最後には、日本人である僕のことも紹介してくれた。
その放送を聴いていた村人たちは、「あいつのことじゃね?」といった感じで、歩いている僕を見、そして、イサーンの人々の優しさだろう。「ちょっと寄っていけよ」という声。いろいろなものを見せてくれる。
【「ほら、見ていけ」と。村で取れる幾種類かのきのこ】
そして、これまたイサーン人の優しいところであろう。村長さん(まだ50歳前くらいの若々しい女性)が、村内をくまなく案内してくた。
【地域特産品(OTOP)である布を織るイサーンのおばちゃん】
【村内で飼われている水牛】
【豚小屋】
【生まれたての豚たち】
【結構、竹が多い】
そんな感じで、村をぶらぶら歩いていると、放送を終えた先生と出くわした。先生は僕を珍しいもののところへ案内してくれた。それは、村にある祠。これまでイサーンの各村で見てきた祠とは少し異なっていた。
これまで見てきた村祠は、村の入り口にあり、その背後には木が多い茂っていることが多かったが、ここでは四辻に位置している。
【四辻にある村祠】
また、2本の柱の中(写真向かって左側のほうは男性器をイメージした柱)に、仏像が安置されており、こうした形状は僕はこれまで見たことがない。
そして、その柱を取り囲むように、これまた男性器をイメージしていると思われる小さな柱が6本立てられていた。これが、どういった意味をもつのか、正確なところについては、説明をしてくれた村長さんも、また文化人類学を専門とする先生も分からないとのことでした。
タイ東北部イサーンの村祠については、岩田慶治先生や林行夫先生などが研究の中で触れているが、ここの村の祠の外観はこれまで僕は見たことがない。ヒンドゥー教の要素が強くあらわれているだが、その詳しい理由は、今回は分からなかったので、非常に残念。
ただ、ここの村祠は、隣県ローイエットにあるグープラゴーナー遺跡から分祀されたものであることがわかり、後日そこに行くことに決定する。
ローイエット県に行く理由がまたひとつ増えた。
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ちなみに、タイ東北部の村祠は、赤木攻先生によると、村の草分けを祀るものであり、かつては村長を決めるなどといった、村にとって非常に重要な取り決めがある際には、必ず祠に伺いをたてたという。(赤木攻『タイの政治文化』勁草書房1989)
そして、現在においても、村祠はイサーンの人々にとって重要なものとして位置づけられていて、たとえば旅に出るときは祠に無事を祈願し、また旅から無事に戻ったときにも挨拶に行ったりする。
また、年に1回、雨季の目前に、この村祠を囲んで盛大な儀礼が行われる。儀礼の目玉は、一羽の鶏の首ののどの腱を調べ、その年が豊作か否かを占うというもの。腱が曲がっていれば、稲穂が頭をたれる姿が連想されて豊作、腱がまっすぐならば逆に不作という占い結果が出るのである。その儀礼は、リアンプーターと呼ばれ、様子はこんな感じである。
この映像でわかるのは、この年は豊作の占い結果が出たことである。実際豊作だったかどうかは定かではない。
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