この本は、電子書籍の発生と普及がどういった影響を与えるかに迫った作品である。
氏は、電子ブックの進む方向性を次のようにまとめられている。
1、キンドルやiPadのような電子ブックを読むに適したタブレットが普及する
2、タブレット上で本を購入、読むためのプラットホームが出現する
3、プラットホームが確立されることで、作家のプロ・アマの境が無くなり、セルフパブリッシングが促進。本がフラット化される
4、電子本と読者によって、新たなマッチングモデルの世界が構築される
うん。きっとそんな流れだろう。
ただ、それはさておき、僕が一番興味を持ったのは、”本の「アンビエント」化”のくだり。
アンビエントとは、「私たちを取り巻いて、あたり一面にただよっているような状態」のことらしい。
つまり本のアンビエント化とは、言葉通りに言えば、本がいつでもどこでも購入できて読める状態になるということだ。
では、そのことはどういう方向性をもつか。
アンビエント化されると、新しかろうが古かろうが、ありとあらゆる本が、フラットに蓄積されるので、今後、これまでのような出版社といった権威的な立場が意味をなさなくなる。
必要となるのは、書き手が自身でソーシャルメディアを駆使して情報を発信すること。それによって、自分の共同性を構築することが必要となるのだ。
その共同性のなかでは、本は、多角的に位置づけられ、メタ化される。
そして、未来、その共同体空間で、新たな文化が幕を開ける・・・
それを、氏はこう言って締めくくる。
”ゾクゾクするほど刺激的な未来”
※
僕が面白いと感じたのは、本が共同性を織り成すのではなく、個人が織り成した共同性の中に本が位置づけられるという、氏の未来像だ。
たとえば、「16~18世紀におけるアンシャン・レジームの時代に、印刷文書が拡大し続ける流通が、どのように社会的結合の形態を変えて、新たな思想を生み出し、権力との関係性を変えたか」(シャルチエ『読書の文化史―テクスト・書物・読解
』)という問題意識に基づいて読書について文化史の視点から研究したシャルチエ。
彼の議論は基本的に、本というコンテクストのもつ特性が、新たな共同性や思想を創出して、それが権力構造に関わっていくというもの。基本的に本に視点を置く歴史学研究では、こうした論調が多い。
しかし、佐々木氏の論調は、個人があらゆるソーシャルネットワークを駆使して共同性を積極的に構築し、そこに本が位置づけられるというもの。
ここには、個人と共同性との関係構造に大きな違いがある。
後者の未来では、個人がいくつものバリエーションに富んだ共同性を自ら作り出し、そのなかでは、本や映像などさまざまなものを駆使して、自己を比較的自由に演出することができるのだ。
しかも、共同体内では本や映像などに関してのコミュニケーションが存在し、決してこれまでのような一方通行性ではない。
個が共同性を織り成し、それが交錯するところで発生する社会、というのはどんなものか現時点ではイメージしにくいが、きっと個人としては”手ごたえ”みたいなものは実感しやすいだろうし、それにワクワクもするだろう。
※
唯一つ大変だなこれは、ということがある。
それは、”本物”であることが要求される社会だな、ということだ。
つまりこれまで権威やなんだに守られたものは意味を成しにくくなるので、自己を演出するそれ相当の能力が必要となるとともに、それらを構成する本や映像などの諸々は本物としての質の高さが求められるということだ。
それに時間軸に沿った評価もあまり意味を成さなくなる。
たとえば、”古典文学はいい。現代文学は堕落した”みたいな偏見に満ちた評価は全く意味を成さない。歴史が古かろうが、新しかろうが、いいものは、いいのだ。
※
本が電子化されると、本は極めて「情報」に特化された存在になると僕は考える。
なぜなら、本がデジタル化されると、欲しい情報にダイレクトに到達できて”つまみ食い”ができるようになるため、これまでのような一定度の意図を持ったジャンルや価値観の中にカテゴリー化されることはなくなるからだ。
本はあくまでも「情報」を得るために特化されるという性格が、大いに高まるわけだ。
しかも、その「情報」は先にも述べたように、良質で”本物”なものであることが求められるようになる。
とするならば、「情報」としての性格を帯びた書籍を、共同性の需要にこたえつつ、どのような見せ方で、構築された共同性の中に発信していくか。
そんな力量が問われる時代が到来するといえよう。
きっと、大変な時代だろうなぁ。
でも、僕もワクワクするほうだ。
こんなことを佐々木氏の本で感じたしだい、である。
応援のほど、よろしくお願いいたします
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