真っ黒に体を塗りたくり、髪の毛が爆発したおっちゃん。
僕らは、この異様な態をどういう思いで見つめるべきなのだろうか?
2つの視点から考えてみたい。
まずは民俗学的視点。
とりあえず一番に目がいってしまうのはどこだろう?
やはり卑猥ともとれる極大な男性器であろうか。
さすがの僕も勝てそうにないサイズだ。
まぁ、自分を卑下することはさておき、こうした性器を用いることは民俗学的にいえば子孫繁栄を象徴するものであろう。
あるいは、男根崇拝とも関連がありそうだ。
ピーターコンの祭りでは、このように男性・女性の性器をあからさまに指し示す場面が多い。
例えばこれとか、
例えばこれとか、
どっちが男女かは言うまでもないだろう。
こんな感じではっきりと性器を前面に押し出す。
これらは、民俗学的な解釈でいえば子孫繁栄を象徴するものなのである。
あるいは、もっとあからさまなものもある。
こんな感じではっきりと性器を前面に押し出す。
これらは、民俗学的な解釈でいえば子孫繁栄を象徴するものなのである。
あるいは、もっとあからさまなものもある。
カタカタと動かしてその行為を生々しく演出しながら、行列を闊歩する。
子孫繁栄を象徴するどころか、そのままである。
これを持って東京の町中を歩こうものなら、ちょいと洒落じゃ済まなそうだ。
こうした文脈から、黒塗りおっちゃんは子孫繁栄を願ってあんな妙な態をとっているといえるのである。
また、おっちゃんが持っているもの。
杖、ひょうたん、および水筒である。
で、それが竹製であることに注目したい。
アニミズムの世界観で捉えると竹は、その異常な生長力、空洞な空間は霊性をイメージさせるのだ。(沖浦和光『竹の民俗誌―日本文化の深層を探る (岩波新書) 』)
ラオの社会でははっきりとしたことは分からないが、日本と近い考え方があるように思える。
祭りや儀礼のほとんどで竹が使われ、神の依り代としての役割を果たす場面も多いのである。
ということで、黒塗りおっちゃんがこの竹を持つことはすなわち霊性を備えるためとも解釈できるのである。
以上から民俗学的視点で黒塗りおっちゃんを見つめれば、彼は子孫繁栄を象徴する極めてマジカルな存在といえよう。
しかし、文化史的な側面から捉えると、また違った点が浮き彫りになる。
「おっちゃん。なんで体を黒く塗っているの?」
「そりゃ、森の民だからさ」
黒塗りおっちゃんは答えた。
そう。
これは実のところ、彼らが描く森の民のイメージを形にしたものなのである。
イサーンはその昔、森深い地域だった。
森を切り開いて平地に住む人々が増えたのは19世紀頃からであろうが、平野に住む人にとって森の民は普段見ることのできない不気味な存在だったはずである。
森自体が異界と捉えられていたので、そこに住む民なんぞは畏怖すべき対象だ。
それに、異界に住む民という賤視の眼差しも存在していたかもしれない。
そのような歴史的に植え付けられた森の民イメージを表象しているのが、この黒塗りおっちゃんの態なのである。
祭りの行列では多くの黒塗りの森の民たちが闊歩する。
その異様な姿は、森の異界性や畏怖をイメージさせるにあまりある。
手に握られる竹の杖は、先の話でいえば霊性を備えさせるし、あるいは単純に竹の生い茂る場として森を想起させる効果をもつのである。
というわけで民俗的視点と文化史的視点、両者の視点から黒塗りおっちゃんを眺めると違った結論になる。
民俗的に黒塗りおっちゃんを考えれば、そこに現れてくるのは子孫繁栄の象徴性である。
しかし、文化史的に捉えれば、地域住民の人々が森の民をどのようにイメージし、扱ってきたのかという点が見えてくるのだ。
祭りを見る眼差しは、民俗的な視点のみならず、社会・文化史的視座も導入して総合的に考えていくことが必要とされることを、このおっちゃんから学び取ることができるのである。
それにしても、そんな態なのに真面目に並んで舞台上の話を聞かれても…って気がしないでもない。
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