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「行き詰まった日本を捨てて、あなたは海外で生きられますか?」に素直にYesと言わせなくする定住の「常識」と、「試住」の考え方。

          (source:  http://on.fb.me/PXqGfZ   Wall photo Facebook) 「行き詰まった日本を捨てて、あなたは海外で生きられますか?」 今月のCOURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2012年 10月号は、なかなか挑発的(?)なコピーで特集が組まれている。 即買い。 で、本記事で、自分なりの答えをだしてみたい。 ”より大きな可能性を求めてアジアへー「越境の時代がやってきた」” そう題して特集が編まれる。 「日本はアジアではないのか!」とつっこみを入れたくなるところだが、まぁ、そこはおいておこう。 言わんとすることは分かるし。 でも一応ここからは、日本をのぞくアジア地域を括弧付きの「アジア」として書く。 さて、本書は「アジア」を舞台として、働く人々(日系企業の駐在員、現地起業家、現地採用者)の話、学ぶ人々(中国語を習得するために「アジア」に住む欧米の子供)の話、逃げる人々(資産フライト)の話を紹介している。 で、これら各人を、「アジア」を舞台とするにあたって自発的にそこに立ったのか否かで分類すると、次のようにまとめられそうだ。 ① 自発的に「アジア」を舞台とする人々。  ・起業家や現地採用者  ・資産フライトを目指す人 ② なんらかの指令に従って「アジア」を舞台とする人々。   ・会社の駐在員  ・親の教育方針に従う子供 ①の方向性 個人的には②に関していうと、欧米人が中国を強く意識してその言語を学ばせようという動きを活発化させているというエピソード自体は面白かったものの、それ以外にはあまり興味がない。 それよりも僕は①の方向性に興味をもつ。 「行き詰まった日本を捨てて、あなたは海外で生きられますか?」の「捨てて」という挑発的な(?)言葉も①を連想させるしね。 僕が思うに、高城剛『モノを捨てよ世界へ出よう』のような、①の方向性は今後もっと高まる。 きっと書店に多くの関連本が並ぶ日は間近なはずだ。 「今後は日本から『アジア』あるいは世界へと展開しなくては」という問題意識や「海外に展開すれば面白い」という考えをもつ人々の思いや行動は加速していくだろう。 「アジア」をはじめとした海外のことなどに全く無関心の人々と、言動の差をどんどん拡げながら。 また、「アジア」や世界を視野にいれる人々の間でも差が出るだろう。 それは、実際に「よっしゃ!ここはいっちょ」と各国へ飛び立つ人々がでてくる反面、「分かっちゃいるけど…」と何かと理由をつけて結局飛び立たない人も出てくる流れである。 つまり、越境の時代、日本から「アジア」・世界へという考えと行動の視点から人々を分類すれば、 ①「よっしゃ、ここはいっちょ」と行っちゃう層 ②「分かっちゃいるけど…」と行かない層 ③ ...

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「日本人が韓国でフリーハグをしてみた」映像を見て感じる、身体論からの世界観。

日・韓問題。 国レベルでは何かと大変だ。 でも映像のように、人と人が身体をつけあわせること。 これはいいなぁと思う。 抱き合うことで相手の体温をリアルに感じとる。 そこで生まれる自然な笑顔。 身体のふれあいを通じて喚起される感情は、頭で思っていることとはまったく違うもののはずだ。 最近は、実際に触れたり、嗅いだり、食べたり、聞いたり、見たりといったいわゆる五感を鋭くせねばなぁと思う。 なぜならば、それが4次元的な世界(あっちの世界ともいえようか)を含んだ世界観の基礎となると考えるからだ。 たとえば、タイをはじめとした各地の儀礼。 我々の住む世界と異界の結節点として儀礼が行われているとすると、観察者は己の五感すべてを駆使してそれに向き合わねば、儀礼を演じる者が達している(と考えられる)4次元的な異界の入り口にたつことができない。 儀礼の場にあるモノに触れる。 儀礼に登場する様々なものの匂いをかぎ、味わう。 儀礼の音に耳を傾ける。 演者をはじめとした全てのものを俯瞰する。 トータルに儀礼と向き合うことが必要なのである。 もちろん観察者として、演者の達する4次元的世界には入り込めない限界がある。 でもそれを知りながらも世界に近づこうとする。 多少なりとも感じようとする。 その姿勢は重要であろう。 そして、4次元的な世界への想像力が高まると、目の前に拡がる世界に対する認識が相対化され、世界が様々な層からなりたっていることを教えられる。 自分のコスモロジーが拡がる。 人生において自分のコスモロジーや世界観を常に意識し考えることは決定的に重要である。 このように、五感をフルに使って物事を眺め、頭だけでなく、身体全てで感じたり思考する。 そして4次元の世界への想像力をもっと鍛えていく。 今、身体論を基礎にすえた世界感の形成や社会的行動を問わねばならないと思うのである。 それにしても今回の記事。 「Free ...

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カオサン通りのストリートファッション記事から。

CNNに8月6日付で「バンコク・カオサン通りのストリートファッション」という記事が掲載されていた。(コチラ) カオサンにいたオランダ人、タイ人、韓国人、ポーランド人、イングランド人、マレーシア人の各ファッションが紹介されている。 ファッションの善し悪しについてはよくわからないが、「カオサンもファッショナブルな人々が集う街と注目されるようになったんだなぁ」とは思う。 記事にもある。 ”10年前は、汚いゲストハウスや旅行代理店、パブが並ぶだけの通りだった… それが今ではスターバックスからistudioまで並ぶ街になった” そう。僕が初めてタイに訪れたのは15年ほど前のことだが、そのとき、最初に泊まったのがカオサン通りのゲストハウスで、今とはだいぶ様相が違った。 記事の通りである。 何か特別な物があるわけでも無かった。 でも当時、僕はカオサンが大好きだった。 かといって僕は、いわゆるバックパッカーではない。 何かしらの熱い思い(当時で言えば”自分探し”みたいな)なんかも、一切持ち合わせていなかった。 ただただタイの雰囲気が好きで、そこの象徴的存在がカオサンだったように思う。 2〜300円で一泊できちゃったり、メシが60円くらいで食べれたり。とにかく色々な物が安かった。(まぁ、実際、今も値段はそんなに変わってないっちゃあ変わってない部分もあるけど…) ゲストハウスの共同シャワーを浴びた後で、屋台を茶化しながらブラブラ。 異国の酷暑の中で、シンハビールやらチャーンビールを友人と呑むのがとにかく楽しかった。 街全体からマグマのように発せられる巨大なエネルギーは、当時の僕に大きな衝撃を与えた。 何もかもが新鮮で、なにより刺激的だった。 そんなカオサン通りも今や世界のファッショナブルな人々が集まると街として(言い過ぎ?)注目されている。 当時とはだいぶ変わった。 でも、今でもカオサンは好きだし、時折行きたくなる。 それはカオサンのエネルギーが健在で、まだ僕を惹き付けてあまりあるからだろう。 2年半前にカオサン通りの端から端まで映像におさめたのだが、今どれほど変わったのだろうか。 「そろそろ映像におさめて比べてみなければ」という妙な決意を固めずにはいられない。 (function(d, ...

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男性器まる出しの黒塗りおっちゃんをめぐる2つの解釈。

真っ黒に体を塗りたくり、髪の毛が爆発したおっちゃん。 僕らは、この異様な態をどういう思いで見つめるべきなのだろうか? 2つの視点から考えてみたい。 まずは民俗学的視点。 とりあえず一番に目がいってしまうのはどこだろう? やはり卑猥ともとれる極大な男性器であろうか。 さすがの僕も勝てそうにないサイズだ。 まぁ、自分を卑下することはさておき、こうした性器を用いることは民俗学的にいえば子孫繁栄を象徴するものであろう。 あるいは、男根崇拝とも関連がありそうだ。 ピーターコンの祭りでは、このように男性・女性の性器をあからさまに指し示す場面が多い。 例えばこれとか、 これ。 どっちが男女かは言うまでもないだろう。 こんな感じではっきりと性器を前面に押し出す。 これらは、民俗学的な解釈でいえば子孫繁栄を象徴するものなのである。 あるいは、もっとあからさまなものもある。 カタカタと動かしてその行為を生々しく演出しながら、行列を闊歩する。 子孫繁栄を象徴するどころか、そのままである。 これを持って東京の町中を歩こうものなら、ちょいと洒落じゃ済まなそうだ。 こうした文脈から、黒塗りおっちゃんは子孫繁栄を願ってあんな妙な態をとっているといえるのである。 また、おっちゃんが持っているもの。 杖、ひょうたん、および水筒である。 で、それが竹製であることに注目したい。 日本でいうと竹は霊性を備えた存在である。 アニミズムの世界観で捉えると竹は、その異常な生長力、空洞な空間は霊性をイメージさせるのだ。(沖浦和光『竹の民俗誌―日本文化の深層を探る ...