本堂に入ると、中には誰もいなかった。
観音様の前に座り、手を合わせ、拝む。
観音様を守護するかのように並ぶ何体もの仏像。
様々な飾り付け。
本堂内部を眺めていて、ふと気づく。
空間には幾層もの「地平」が折り重なっているんだなぁ、と。
僕が座る外陣の地平。
坊さんが座る場の地平。
そして観音様や守護神たちが座す場の地平。
これらすべては違う高さになっていて、もちろん僕の座す地平が一番低い。
地平の高さを違えることで象徴される、聖と俗の断絶。
まぁ、当然のことといえばそれまでだが、改めて空間構造の巧みな作りに驚かされる。
本堂の空間自体がもつ宇宙観をなんとか読み取ろうと観察し、想像をめぐらす。
これがなんとも、楽しい。
「これから太鼓の練習をしたいのですが、よろしいですか?」
ああでもない、こうでもないと夢中になっていると、いつの間にか入室していたお坊さんに声をかけられた。
よろしいも何も、こっちにしてみれば願ってもいない幸運である。
般若心経を太鼓の節にあわせて読経する場に、1人で拝聴させてもらえるのだ。
誕生日を迎えている僕にとって、なんとも粋なプレゼントといえよう。
2人のお坊さんのうち、1人は太鼓をたたく。
もう1人は般若心経の読経をとなえる。
(映像のイメージ)
これが言葉にならないほど、すばらしかった。
太鼓の音は、もの言わぬ仏様や空間すべてに、確かな息吹を与えるかのように力強く響き渡る。
身体と、そして魂を揺さぶるような激しい音だ。
楽器から発せられる音は、声や言語よりももっと根本的な思想を示すといわれる。
たとえばアフリカには、太鼓の音を使って昔語りをする部族がいる。
昔語りに言葉はいらない。
リズムや強弱、長短を巧みに使いわけて、意味を成立させるという。
(川田順造『無文字社会の歴史―西アフリカ・モシ族の事例を中心に』)
「文字の無い社会=無文字社会は遅れた地域だ」という先進国からの一方的な眼差しは間違っている。
川田順造氏がいうように、それは文字が無い社会ではない。
文字を必要としない社会なのだ。
音という原初的・根本的ながら、圧倒的な力を用いた文化もまた極めて高度なものなのである。
本堂で1人、仏様に囲まれつつ、太鼓の音で心がふるわされていると、それを特に感じる。
言葉はいらないのだ。
本堂の小宇宙が音の力によってカオスと化し、巨大な塊となって僕を包み込む。
宗教が発達するよりも前の聖なる何か。
だからこそ、これといった宗教を信奉しない僕にダイレクトにせまりくるような、そんな気がした33歳の誕生日だったのである。
ところで、当ブログやFacebookなどを通じて、たくさんの方々からお祝いのコメントを頂いた。
この場を借りて、
「ありがとうございます!」
それと、「誕生日は寺に行くべし」と教えてくれたタイの方々。
おかげで、普段気にしないような宇宙のことを想像する(大げさ?)といった一風変わった誕生日になった。
コープクンクラップ!
ポチリと応援クリックお願いします!
びっくりー。
返信削除太鼓を叩きながらの般若心経、初めて聞きました。
映像でもかなり迫力があるのにRyotaさんは目の前で見たん
ですよねぇ。偶然とはいえお誕生日にラッキーでしたね。
誕生日にお寺というのはいいかもしれないですね。
普段の生活じゃ宇宙観だとか地平だとか感じることが殆ど
ないですものね。私も誕生日に行ってみようかな。
そうなんですよ〜。誕生日に寺、おすすめです!
返信削除一年間のいろんなことに感謝して、ゆったりと心を落ち着かせる。自分と向き合ってみる。
なんとも貴重な時間な気がします。
これからは毎年やろうかな、と思ってます。
ということで、お守りも買いました。一年間、お守りに守護してもらおう、っていう意味はもちろん。それだけじゃなくて、お守りを返して新しくするためにも、誕生日に寺へ参拝に行くことが当然になりますもんね〜。(本当は義務ではいけないですがw)正月に神社、誕生日に寺、みたいな感じでしょうか。
とにかく、いい誕生日でした。
phimaiさんからのお祝いのメッセージも嬉しかったです!ありがとうございましたー!!!