一枚の古い写真。
(source: King Mongkut Solar Eclipse Expedition.jpg in Wikipedia ; http://bit.ly/KU2I31)
これは1868年8月18日、当時のシャムの王・モンクット王(ラーマ4世)らが、日蝕観測をしている時のものだ。
1868年といえば、日本では明治元年。
そんな頃の写真である。
写真をみると、王の周りにヨーロッパ列強の高官たちが立っていることがわかる。
彼らは、「この日、タイでは日蝕が観測できる!」と予測した王に招待された人びと。
つまりこの写真は、王と各国の高官による国際的な天文観測大会のものなのである。
場所は現在のタイ南部プラチュアップ・キリカーン県のワーコー。
バンコクから300km近く離れているだろうか。
「この場こそが日蝕を観測できる地点」と、王は予測したのである。
とはいえ、当時ここまでの道のりは無論ジャングルだ。
そんな危険な行程をわかっていながら、あえて王自ら日蝕観測団を組織して出かけたというのは、よほどのことである。
しかもそのとき、王は64歳。
当時としては高齢である。
それにもかかわらず、危険きわまりないジャングルへの旅。
はっきりいって、無謀だ。
事実、王は観測の帰路の途中マラリアに感染し、数ヶ月後にバンコクで亡くなっている。
じゃあなぜ、王は命の危険を冒してまで(犠牲にしてまで)、日蝕観測にこだわったのだろうか。
それは、背景に「伝統的知と新たな知の対決」ともいえるドラマが存在していたからである。
モンクット王は、映画「王様と私」(タイでは上映禁止)のモデルとなった人物として有名だ。
王は西洋との関係性を非常に重視していた。
近代的な思想に敏感で、王族達にはヨーロッパの教育をうけるよう勧めていた。
伝統的な価値観・世界観が根強かった当時の人びとのなかでは、先駆的な人物だったのである。
王は特に、天体のことに格別な興味を抱いていた。
–地球は丸い–
現在でこそ当たり前となっている科学的な地球観は、当時としてはなかなか受け入れられるものではなかった。
しかし、王は早い段階から、地球の丸さを説く西洋の知を受け入れ、確信していたという。
だが、ここが面白いところなのだが、王は天体に関することすべてを、西洋の天文学や数学に頼っていたわけではない。
王は僧院時代にはシャムの伝統的な占星術も熱心に学んだという。
つまり、伝統的な知識と西洋のそれをうまく調和させつつ、物事を考えることができる人物だったのである。
王は占星術のうち特に惑星の運行に興味をもっていた。
逆に占星術の十八番ともいえる占いの方には、興味を示さなかったようだ。
王は天体計算と占いを明確に区別して考えていたのである。
これは当時としては珍しい。
たとえば、1861年に彗星が接近した際、伝統的な占星術師たちが発想したのは「なんらかの大災害に見舞われる」という類いだ。
しかし、天文現象は地上の人間に影響を与えることはないと考える王は、「天体の軌道は吉兆とは関係のない自然現象である。天空に異変が生じても恐れることはない」としたのである。
王は伝統的占星術から一歩抜きん出て、知的前進をはかっていたのだ。
このような革新的な考え方や姿勢は当然、旧来の伝統者との対立をうむ。
既成権力との、威信をかけた戦い。
王はそれに勝利することで、国王としての学識や正当性を示さねばならなかったのである。
そんな背景で迎えたのが、ワーコーでの日蝕観測である。
王による日蝕発生の主張に基づき、日蝕観測団は今か今かとワーコーの地で日蝕をまつ。
実はこのときの常識としては日蝕は起こるハズが無かった。
シャムの占星術に従えば、月蝕はあっても日蝕はありえないとされていたからである。
常識を打ち破る王の予言。
それを証明するには、実際に日蝕が起こるしかない。
王による日蝕発生の主張に基づき、日蝕観測団は今か今かとワーコーの地で日蝕をまつ。
実はこのときの常識としては日蝕は起こるハズが無かった。
シャムの占星術に従えば、月蝕はあっても日蝕はありえないとされていたからである。
常識を打ち破る王の予言。
それを証明するには、実際に日蝕が起こるしかない。
しかし、ワーコーの空は厚い雲で覆われていた。
日蝕を待つ観測団の間に、太陽そのものが見えないのではという不安がよぎる。
もう駄目かとあきらめかけたそのとき、雲は急にとぎれ、晴れわたったという。
皆既日蝕が姿を現したのだ。
皆既日蝕が姿を現したのだ。
王の計算と寸分の狂いなく、太陽は月に隠されたのだ。
(まぁ、このへんのエピソードは少し出来過ぎのような気もするが、それでも王がなんの機材も使わずに、計算のみで日蝕の発生日時・場所を導きだしたことは事実である)
こうして王の威信をかけた戦いは大勝利となり、国内外の人びとにそれを示すことができた。
旧来の伝統的な占星術師たちは王からの非難(なかには処罰される者も)の対象となり、それとは逆に、日蝕の証明によって新たな知が一歩前進、それを獲得している王の威信も上昇したのである。
王の予言通り、日蝕のあった1868年8月18日。
王の学識の高さが証明されるともに、王としての正当性が誇示された重要な一日になったのである。
王の学識の高さが証明されるともに、王としての正当性が誇示された重要な一日になったのである。
王の命をはった行為は王家にとって意義深いものだったといえよう。
というわけで、すこぶる前書きが長くなっちゃったが、今日の金環日食は皆さんにとってどのように映ったのでしょうか?
僕は、残念ながら専用グラスが無かったので、チラッと肉眼で見た程度。
ただ、「肉眼では決して見るな」という情報が頭にあったからか、その後どうも目の調子が悪い気がして…
なんとも気にシイな自分が嫌になるばかりである。
ただ、「肉眼では決して見るな」という情報が頭にあったからか、その後どうも目の調子が悪い気がして…
なんとも気にシイな自分が嫌になるばかりである。
ところで調べてみたところタイでの金環日食が観測できるのは、2031年05月21日。
次は2042年10月14日。
そして、2074年01月27日、同年07月24日…
ああ...2074年には95歳かぁ…なんだか切ない。
ラーマ四世、『王様と私』のモデルというくらいしか知らな
返信削除かったのですが、とても魅力的な王様だったのですね。
正に命懸けの日蝕観測になってしまったけれど、何故王様が
その行動にでられたのか、解説がすごく納得できます。
ワーコーについて全く知らなかったので少し自分でも調べて
みましたがワット・アオノイの洞窟、タイ空軍の基地に
日本軍上陸の石碑、モンクット王科学技術記念公園、
ミャンマーにめちゃ近いとか、いろんな意味で面白そうな街
ですね。Ryotaさんのブログでタイの知らないことや場所が
いっぱい知れて楽しいですねー。
ところで目は大丈夫ですか?おじいちゃんになって見る際
にはくれぐれも専用グラスをお忘れなく!(笑)
「洞窟にタイ空軍基地、日本軍上陸の石碑、モンクット王科学技術記念公園、
返信削除ミャンマーにめちゃ近い」って、なんて色彩豊かな土地なんでしょ。笑
ていうか、ミャンマーにめちゃ近いって面白いですねぇ。
モンクット王の記念館はこの日蝕にからんだ展示だと思いますね。僕も行ったことないのでわかりませんが、そんな気がしますね。一度行ってみたいもんです!
あ、ちなみにphimaiさん。今回のこの記事は、ほとんどが参考であげた図書によってますので、僕自身が調べたことではないので、悪しからず!です。www
それと、目は完全に気のせいです。次こそは、サングラスを手放しませんよ〜。笑
返信削除はい、実際にRyotaさんが見たり、知っていたりのことでも、
返信削除文献等から載せて頂いたのでも全然いいんです。
私にはとてもじゃないですけど、知り得ないことばかりですから。
このブログを見させて頂いてから大好きなタイだけでなく、
東南アジアも含め自分自身の中で前よりももっといろんな興味が
出てきたので、オーバーかもしれませんがRyotaさんには感謝!
という感じです。
phimaiさんからいつもいただく、嬉しいお言葉。
返信削除ブログを書き続ける強~い原動力になります!本当に。
これからもよろしくお願いします!
それにしても、東南アジア全般に興味をもたれているっていいですね。
僕もいろんな地域に目を向けなきゃなぁ。