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イサーンの結婚式の裏。

イサーンの村で行われた、友人の結婚式。 バーイシー儀礼を受けて、多くの人びとから祝福される新郎新婦。 二人はこれから共に歩んで行く。 おめでとう! ところで、裏方は前日から、結婚式の参列者への振る舞いの食事作りで大忙しだ。 僕も、前日の夜は、ビール飲みつつ、トントン・トントンと唐辛子をすりつぶす。 料理の量が量だけに、唐辛子もかなりの数で、 さすがに目にしみる。 でも一仕事終えれば、あとはがっつりとビールを呑んじゃいまして、結婚式当日の朝にはすでにぐったり。 極端な寝不足と二日酔い、ってわけだ。 それとは対照的に村人は朝から元気、元気。 笑顔 笑顔 笑顔 朝っぱらの宴会も始まっちゃって しまいには、踊りだす。 祝福の表現!   ...

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噂のチカラ。

”今月28日(つまりは今日)、プーケットが津波によって水没する” そんな噂がタイで拡がっている。 11日に発生したスマトラの大きな地震以降、プーケットでは震度2〜4ほどの地震がちょくちょくあるらしく、それを根拠として噂が流れたのだ。 「水没するほどの津波なんかあるわけない」 人びとはそう思いつつも、やはりどこか気になるのだろう。 先日には、環境地質学研究所の所長が「水没なんてあり得ない」とコメントを出したが、それは噂を完全否定しきれない人びとの動揺が存在したことを示唆しているといえよう。 「何かとんでもないことが起こる!」という噂が拡まって、住民がなんらかの行動をとったというケースは、たとえば20世紀初頭、タイ・イサーンやラオスでもあった。 「○○月○○日に大異変が起こる。豚は鬼になって人を食う。○○○寺の砂は金に変わる。これまでの悪き行いを洗い流して急いでタンブン(積徳行)をしないと死んでしまう。…」 なぁんていった噂だ。 これを聞いた住民は寺に行って砂集めに励んだり、各地で発生する自称聖者から儀礼を受けて悪しき行いを洗い流したり、あるいは鬼に変わる前に豚を殺したり、といった行動に走ったという。 人びとは不安と希望の入り交じった感情をもって、”その日”を待ったのである。 しかし、予言された”その日”は特に何事も起こらずに過ぎ去った。 大半の人びとはそこで「やっぱり何もなかったな」なんて感じで日常に戻ったのだが、一部の集団は権力主体への闘争グループへと発展している。 メコン川をはさんでタイ側の人びとはシャム政府と、そしてラオス側の人びとはフランスと衝突したのである。 「我々ラオトゥン(中腹ラオ。低地ラオの人びとから長い間差別的に扱われていた)の独立を認めろ!」とまぁ、噂とは関係のない方向性での主張が展開されて、ラオスにいたっては20年以上もの長い闘争になっていくのだ。(タイ側は2ヶ月ほどで収束) 発端は単なる噂話。 それが不安と希望の感情をつくりだし、人びとは同じような行動をとってつながり、最後、そのうちの一部は自己の権利を求めて権力主体と戦うグループへと発展したのである。 噂話は、歴史的に大きな事件へと発展させるための人的つながりを促すという意味で、大きな力を秘める。噂の内容の真実味云々は二の次なのだ。 そう考えると、今回の噂話の騒動。 もしかしたら、噂話が人びとをつなげ、僕らが予測もつかないような方向にいっちゃったり、って可能性も別にゼロではないのである。 まぁ、とはいえ単なる噂として忘れ去られることが大半でしょうけどね。 ちなみに、先の所長さんによると、噂の背景にはプーケットの土地価格の混乱を招くことで利益を得ようとする投資家の存在がチラついているとか。 それが本当だとしたら、自分の利益のために根も葉もない噂を流して地域住民の不安をあおるなんて、あぁいやだ、いやだ。   ...

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「この水で病気が治るんだ!」ウワサの沼へ集まる人びと。

”あそこの沼の水を飲めば、病気が治っちゃうらしいぞ” そんな噂がタイ北部で発生しているらしい。(カオソッド紙23日付)                            (Source:http://tnews.teenee.com/etc/79204.html) 病気が治ると噂される水は、タイ北部プレー県のパーメット区の沼のもの。 高熱で苦しんでいた者や、骨の異常で歩けなかった者、肌が悪かった者などが、沼の水を飲んだところケロリと治ったらしい。 で、そんな噂が拡がって、今では写真のように容器を持った人びとが沼に訪れているのだ。 僕からすれば、どう考えても飲むに適していないように見える水だが、現地に訪れる人びとにとっては関係ない。 ”水に不思議な力が宿っている” そう信じてやまないのである。 タイの人びとは呪術的なものや、聖なるものを今も深く信仰している。 中でも水は、極めて重要な役割を担うものの一つである。(まぁ、世界共通かな?) タイの儀礼や祭りで、それを如実に感じる。 たとえば僧侶による聖水儀礼では文字通り聖水と化した水をシャンシャン振りかけられるし(僧侶によってはビチョビチョになる位振りかける…)、先祖への徳の転送の際にも水が使用される。 先日のソンクラーン(タイ正月:水掛け祭り)も、水がモロ主役だ。 また、王の即位式では、新たな王を聖化させるために聖水潅注は必須となる。 民衆から王のレベルまで、水のもつ役割は深く浸透しているのである。 要するに水は”悪いもの”を流したり、あるいは”聖なるもの”に変化させたりできる存在。 だから今回、どう見ても汚い沼の水ですら地元住民が神聖視するのも、彼らのその理屈に従えば不思議でもなんでもない。 聖なる水を体の中に取り込んだり、あるいは浴びたりすることで、悪いもの=病気を洗い流す。 これが伝統的な知識として彼らの根本にある以上、彼らの行動は合理性をもっているのだ。 彼らのとる行動を西洋的な価値観で考えてしまうと、「なんだかわけの分からない汚い水を飲むことで病気が治るという妄信に従った未開人の行動」みたいなニュアンスになってしまうだろう。 だが、彼らには彼らの論理が当然ながら存在しているってことなのである。 今回のケースについて地元紙は、水を飲んで病気が治るというのは信憑性が薄く、むしろ衛生上の観点から控えるべきだとまとめている。 だが、聖なる水として人びとに認知された以上、そうした科学的な根拠はあまり意味をなさない。(まったく別物だからね) というか、実は記事を書いた記者もどことなく沼の水を神聖視する部分を持ち合わせているんじゃないかなぁ? たぶん記者も、現地に行ったら一応水を口に含んじゃうような、そんな気がする。 「聖なる水に対して、科学的根拠に基づく否定は野暮だろ!」とか言って爆笑しながら友人と水を掛け合う記者の姿が目に浮かぶようだ。   ...