<タイが遺跡を所有することの正当性を主張する映像>



タイーカンボジアの国境線に立地する世界遺産プレアビヒア遺跡(タイ名:カオプラウィハーン)付近にて、両政府軍が近隣住民をも巻き込んで、戦闘を続けている。

死者もでているようだ。



ちょうど1年位前も、両軍の衝突があったような。

というより、2008年も2009年も。

つまりはここ数年、定期的に衝突しているのだ。

衝突は遺跡所有の権利をめぐる国境線問題による。



カンボジア側は、1904年にフランスによって確定された国境線や、1962年の国際司法裁判所の判決を根拠として、遺跡がカンボジアのものであることを主張している。

一方のタイは、遺跡付近の国境線はまだ曖昧だとして、両国半々づつの権利を主張。軍隊を遺跡付近に配置している。

双方の意見は長期間にわたって分裂している。



タイ国民は言う。

「カンボジア人は性格が悪い。あの遺跡を一方的に占領して、攻撃をも仕掛けてくる。

そもそも、遺跡付近の国境線はフランスが分水嶺を基準にして決めたものだが、分水嶺に従えば実のところ、遺跡はタイのものだ・・・・」

と、まぁこんな論調。

きっとカンボジアの国民たちも、色々な根拠に従って、タイを罵っていることだろう。



両国民の言い分の違いは、遺跡付近の国境線の認識の相違から生まれる。

国境線の認識とは、国境線をめぐる歴史的経緯の認識ともいえよう。

で、その認識の相違は、歴史的経緯や現状を「どのように教わってきたか?」によるところが大きい。

権力や報道が喧伝する、遺跡や国境線をめぐる歴史はどのような”言葉”だったのか、ということである。

権力が、遺跡や国境にかかわる「歴史」のどこの部分に焦点をあて、どのように表象したか。

その差が、国境や遺跡付近の認識の差へと結実し、対立関係へと発展していくのである。



まぁ、言ってしまえば、歴史の”言説”というのは、権力が自己を正当化するために創られるわけで、それは常だ。

たとえば、タイと周辺諸国との国境線の問題は、タイという国の歴史や、国民の歴史認識と密接にかかわっている。

タイの人々は、タイと周辺諸国の間に国境線が引かれたころの、19世紀後半から20世紀初頭にかけての歴史を、こんな風に教わってきている。


①この時期、列強はアジア各国へと進出し、つぎつぎと各地を植民地化していった。

②ラーマ5世王は、シャム(その頃のタイの呼称)が西洋の植民地にならぬよう、強力な中央集権化と地方行政の整備を推し進めた。

③ラオスやカンボジアなどの土地を割譲することで、現在のタイの領域の保持に成功した。

④王による近代化の推進や、巧みな外交戦略によって、シャムの領土は、西洋の植民地化から免れ、独立した国家として存続しえた。



いわば、タイが国家として存続しえたサクセスストーリーが、西洋との対立構造に従って語られているのだ。



だが、ここにおいて疑問が生じる。

それは、シャムがラオスやカンボジアなどの地域を割譲した・・・とあるけど、もともとそれら諸地域を含んだ領域をシャムは持っていたの?ってことだ。

きっと、そんなものなかっただろう。



19世紀以前のこの地域で、現在みられるような国民国家としての領域や、それを統治する権力主体は存在していない。

シャムは、数あるマンダラ国家の一つにすぎなかった。

マンダラ国家は、特定の国境線をもたない曖昧に規定されたもので、時によってその幅が伸縮したりする、いわば不安定な政治状況を象徴している。

で、そんなマンダラ国家内部には、各地に散在する有力者=首長(ジャオムアン)たちがいて、王は彼らから朝貢を受けていた。

ただし、王には各首長の住民統治のあり方に干渉することはできない限界があった。



つまり、王が一定の領域を保持して、一面的に支配を貫徹するという形態は存在しなかったのだ。

いや、もっといえば、当時の領域という観念すら、今我々が考えるようなそれとはズレるものかもしれない。

なにせ、領域を形成する国境線すらなかったのだから。



では領域の観念はいつ生まれたか?

それは、西洋列強が東南アジアへ進出するなかで、地図作成の近代的技術が持ち込まれ、国境線が引かれるようになってから、である。

シャムの軍隊はイサーン地域などの”辺境”に進出して、地図をせっせと作り始める。

出先では、フランスと衝突することも多々あったという。衝突しつつ、国境線が決定されていったのである。

要は、シャムとフランスの陣取りゲームが、辺境の地で展開された、というわけだ。

そう。言ってしまえば、辺境の地の人々にとっては、シャムもフランスも”侵略者”だったのである。



で、こうして、はっきりとした領域が確定され、地図として可視化された。

地図は人々の目にも触れることとなり、しだいに人々は、自分がタイという国の領域内にあることを認識するようになる。

これまで独自の秩序を形成していた諸空間が、近代国民国家建設を目指すシャムの支配下に入ったのである。



こうした歴史を振り返ると、国境線と地図の作成が、いかにタイという国それ自体の形成と、密接にかかわっているかが伺える。

そして、「もともとタイは広大な領域をもっていたが、その一部を西洋列強に割譲して、現在の領域、国土を保全した」という論調は、権力が語る”言説”に過ぎず、歴史的事実を物語ってはいない、ということもわかるのだ。

かつてのタイが辺境の地に侵略していったという歴史を隠蔽する、タイを中心としたナショナルヒストリーでしかないのである。



しかし、大半のタイ国民はこうしたナショナルヒストリーの言説を教育されてきたし、それを信じて疑わない。

そう。

権力を正当化するためのナショナルヒストリーで語られる言説というのは、非常に根深いのである。




だとすると、遺跡をめぐる問題が、今後どのように両国の国民に喧伝され、言葉化され、歴史的言説となるのか。

いいかえれば遺跡をめぐる両国の問題が、自国を正当化するナショナルヒストリーとしてどのように”利用”されていくのか。

まぁ、冒頭に載せた映像のように喧伝していけば、タイとカンボジアの両国間の溝が深まる方向性に向かうことは想像に難くないだろう。

本来ならば遺跡の問題は、ナショナルヒストリーの文脈だけではなく、過去から残された人類の財産をいかに保存し未来へ継承していくかという文脈で、語られなければならないはずなのにねぇ・・・。


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<参考>