立体化する「イサーン」の象徴性。





ー私たちは自然と共生しながら、ここに広く生い茂る森を大切にしてきた。私たちは”森の民”なのー

BS地球絶景紀行「バルトの大自然ラへマー(エストニア)」で、エストニア人がこんなようなことを口にしていた。







エストニアと言われてスパン!と地図が出てこなかったことはさておき、こんなセリフを聞くと「ああ、自然に敬意を払い、共に生きるというのすばらしいことだな。これからの人類、目指すべき方向性の一つだな」と感じる。

と同時にタイ馬鹿な僕は、「森の民」という言葉から、タイやらラオスのイメージが喚起される。



タイでは、スコータイ王朝にしても、アユタヤ王朝にしても、王都から距離が離れるにつれて、その地域は王の権力の及ばない、辺境の地として扱われた。



また、ラオスでも、平地のラオからすると、山地の森の中に住むラオの地域は、侮蔑対象の人々が住まう地だった。



そんな中心から離れ周縁に位置する彼らは、「森の民」や「山の民」、あるいは「奴隷」などと言われてきた。

要は”周縁の人々”、”未開の人々”を象徴する言葉として、「山の民」といった語が使われたわけである。



でも、番組でエストニアの人が口にした「森の民」には、そんな意味は込められていない。

いや、もしかしたら、かつてはイタリアやフランスの都から遠く離れた辺境の地域として負のレッテルが中心の側からはられていたのかもしれない。

でも、そんな過去のレッテルをまるで逆手に取るように、今エストニア人が自らを語る「森の民」像は前向きだ。

彼らはあくまでも森と共生することに重大な価値をおき、自分たちのアイデンティティとして「森の民」を自称している。



こういった象徴的な言葉を逆手にとるという作業は、現在のタイも実はよく見られる。

たとえば、「イサーン」。

この言葉の響きには、これまでタイ東北部という地域名をこえて、”貧しい”、”未開な”、”野蛮な” などといった負のイメージがつきまとっている。




しかし、近年では「イサーン」、あるいは「イサーン人」という言葉をアイデンティティとし、そこにプラスのイメージを付与していく動きが各地で行われている。

イサーンの自然や伝統・文化、価値観、そして人々の温もり…



これら全ての要素が「イサーン」という語のもつこれまでの負の象徴性に修正を加えていく。

いや、修正というよりは立体化させるといったほうがいいかもしれない。

これまでの負のイメージだけではない、正のイメージも含めて創られる「イサーン」はきわめて奥深い立体的な姿である。

もちろん、これは「森の民」の語だって同様のことは言うまでもない。



言葉の象徴的意味の立体化。

当事者が、対象の新たな価値を発見したり、創造したりして、発信していくことでなりたつ。

それは、コレまでとはまったく違うような、なんだか妙に面白い見方を提供するような、そんな魅力的な行為に思えてならない。


  (チェンライ・ドイトゥンの山にて)




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2 件のコメント:

  1. 都の人間は”自分たちが基準”なんでしょう。そんなこと誰が決めたのか。
    都の人達が”貧しくて、野蛮”だと思っている人達は、実は誰よりも誇り高く、
    逞しく、心豊かに暮らしているかもしれないのに。
    それにしてもRyotaさん、いつも見事な文章力~。
    ボキャブラリに乏しい私にはとてもじゃないけど書けませーん。

    返信削除
  2. phimaiさん。

    そんなお褒めの言葉を言って下さるのは、phimaiさんだけです。笑
    ありがとうございます!

    おっしゃる通り、ただ都からの距離や文明といわれるモノが少ないだけで、「野蛮」や「辺境」としてくくるのはやはり変ですよね。でも今や、そのことに皆が気づきはじめ、富/貧や野生/科学…なんていう二項対立では今後の世界は捉えきれないという発想になってきていると思います。都市と地方も、両者ともに価値があってどっちが優越とかではないですもんね。なにか大きな発想の転換が今後必要とされるんでしょうね。

    なんて思ってますが、どうもうまく表現できません。

    うん?おかしいな?あれだけphimaiさんにお褒めの言葉を頂いたのに…笑

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